職場などでよく聞かれます。
「ねぇ、山を何日も歩くんでしょ? その間、何考えてるの?」
私も聞きたい。
強烈な日差しを浴びながら、さらに照り返しで真っ黒に日焼けしそうな堤防でちっちゃい折り畳みのイスに座って釣りをしている人に。
釣り竿がピクリと動くまで、何を思っているのでしょう。
無、ですか?
私は…無に、なりきれていないです。
急な上り坂に体が慣れていない最初の30分は言い訳ざんまい。
「今日は調子が悪いかも? 寝不足かも? 温泉でのんびりするのもいいかも…」
その30分が過ぎれば「調子出てきたな。もうちょっとがんばってみよーっと」
と2回くらい自分を励ます。
でも、急坂の連続で登っても登っても展望が開けないと…
仕事で失敗したこと、怒られたこと、イヤだったことが頭の中にポンポンでてくる。
失敗は大きなものから、こんな小さなものまで。
私は活舌がわるいので、例えば「ととのう」が「ととととととのう」になってしまうことがあるのです。
一度やってしまうと、しばらくはその単語がうまく言えない。
気にして焦るから悪循環なんですよねー。
体がキツイんだから、頭だけでも楽しいこと思い出せばいいのに…つらいことが出てきてしまっている。
かといって、つらいことを「考えないようにしよう!」とは思わないのです、不思議なことに。
考えているうちに、溶けてなくなり、どんどん密度が低くなっているのです。
そして、いい景色が見えるあたりまでくれば、もう山のことだけ。
ここに来るまでが長いけれど。
どれだけ反省させられてるんだか。
ここからは全部忘れちゃって、下山した後はどうでもよくなっているから、私には必要なことなのかもしれません。
ストレスがたまりまくっていたときは、こんなステキなところまで自分の脚で登ってこられた私は「とても自由だ」と言葉がぽんと出てきて、すごく解放された気分になりました。
山に入る1歩目から、山のことだけを考えていられるようになる日がくるのでしょうか。
みなさんも通勤中や街を歩いているとき、きっと何かしら考えていますよね。
それ、思い出そうとして思い出せますか?
私は思い出せません。
無になろうとしてもムリで、頭の中の引き出しをちょっとずつ開けて中身をポイポイっと放り投げるように、いろんなことが脈絡なく浮かんできます。
考えよう! と思ってもいいアイデアなど思い浮かばないのですが、こんなふうに自然に思うままにまかせていると、いきなり道が開けるというか、自分にとっての新しい場所にポンっと着地できるときがあります。
それはいつも山の中でのんびり歩いているときに感じます。
ただ歩く、という行為がいいのでしょうかねぇ。
ギモンを投げかけてくれた相手にこう答えると
「山にいるときくらい忘れなよー」と言ってくれますが、忘れよう忘れようとすると、かえって囚われそう。
だから、何が頭に浮かぼうと、思うままにまかせ、その時間をこれからも大切にしていきたいと思います。
笑ってしまったできごとをひとつ。
以前勤めていた会社で、支社の交流を兼ねて社員旅行がありました。
なんとかっていう建物(興味がないので覚えてもいない)を見るためだけに、けっこう急な石畳の坂道を上っていました。
全員がスニーカーではなく、女性はミュールのような人もいて歩きづらそうでした。
私はずっとトイレを我慢していました。
あ、トイレがある。
添乗員さんにこっそり伝えます。
「ねぇ、トイレ行ってもいい? すぐ追っかけるから」
「上にもあるよ。だからもうちょっとだけ頑張って」
はーい。
…まだけっこうあるなぁ。
トイレを我慢しているときって、不自然な歩き方になりませんか?
それも、第一波、第二波をやり過ごした後なので、本当に切羽詰まってる。
上のトイレが混んでいたらどうすんだよ。
無意識に、(山歩きで)足元が悪く、段差が大きいところを昇降するときのような横歩きになっていました。
「あー、登山家の〇〇さんの上り方、マネしよー」
のんびり山歩きをしているだけなのに、支社が違う人たちからはなぜか登山家扱いです。
登山をしている人は増えているものの、私の周りにはあまりいないようで、初めて会う人が興味を持って話しかけてくれるのが嬉しいです。
「あ! 歩きやすいね、やっぱり」
そうなのか?
今までつかっていた筋肉と違うをつかうから、楽に感じるのか?
30人ほどいたのですが全員、その歩き方になっていました…横歩きの理由を知っている添乗員さんだけが爆笑してました。
私もひっそり笑いました。
このとき頭の中は、トイレが混んでないかってことでいっぱい。